恵比寿駅近くに「めし処 こづち」という生ける伝説みたいな定食屋があるんです。質素な店構えのほんとに絵に描いたような定食屋。エビススタジオの向かいにあるもんで大物カメラマンやデザイナーといった同業界の大先輩もよく食べに行っているという話しを僕はずいぶん昔から友達のカメラマンや先輩デザイナーから聞かされていて(なんでも「こづちで喰わずして恵比寿を語るなかれ」という言葉もあるそうで。ほんまかいな)、なんと言いますか自分の中で勝手に伝説化されてしまっていて、あまりに敷居の低いその外観がかえって敷居になると言うか、えー、漫画家を志す人にとってのトキワ荘のような感覚とでも申しましょうか、なんかこう、恐縮してしまうところがあって、僕は恵比寿に事務所開いてから何年も経つってのにまだ入ったことがなかったんです。
で今日、お昼どーしよっかなーと考えつつ恵比寿駅から事務所に歩いていて「こづち」の前を通りかかり、む、恐縮を振り払って(ってたかが定食屋さんに恐縮してたってのがそもそもヘタレなんですが)入ってみるかと決意し、のれんをくぐってみた。
たしかに恵比寿という街は、チャラい店もあればこうした古い風情も息づく面白い街だが、この店内の雰囲気は別格の異次元だ。
壁一面に連なる品書き。黙々とメシをかき込む男たち。カウンターの向こうで揚げ物してたオヤジが顔を上げ、なんだよ、みたいな目でこっちを見る。
瞬時にして恐縮が復活。
空いていた椅子におそるおそる腰掛けると、物陰から現れたばあちゃんが物も言わずにカウンター越しに水をよこす。思わず、あ、すいません、と言って受け取る。
ばあちゃんが、なに食べんの? みたいな顔でじーっとこっちを見てる。
なにしろメニューが多すぎる。ばあちゃんがジーッと見てる。もはや、何を食べたいかというよりどうやって切り抜けるかという発想になる。
「あぅ、えと、日替わり定食とかってあるん…」
「肉豆腐」
「はっ?」
「肉豆腐」
「…それください」もしかしたら、僕は、すこし涙ぐんでいたかもしれない。
とにかく店の人も客も余計な口をきかない。もちろんBGMなんざ流れていない。たまにばあちゃんが味噌汁の鍋をガシュガシュとかき回す音以外は完全なる静寂の世界で、皆、黙々とメシをかき込んでる。スピリチュアルなものを感じる。
出て来た肉豆腐定食を食しながら、ようやく少し落ち着いた僕は、あらためて品書きを眺めてみた。
単品メニューがたいへん多い。なるほど、おそらく通い慣れた人は単品+ご飯+味噌汁、という注文の仕方をするんだろうなと納得。安くて旨い、という事前情報だった。たしかにチャーハンは350円。「生卵」が60円。でも「目玉焼き」は300円する。「焼いただけ」でなんでそんなに値上がりするんだろう。焼きそばに400円、肉炒めに480円の値をつけながら「肉入りや焼きそば」を450円で出す感覚が判らない。首をかしげながらなおも見ていくうちに、僕の目は一枚の品書きにフォーカスした。
「マヨネーズ20円」
タダにせいよババアと腹の中で毒づきながら、肉豆腐に醤油を少しかけていた僕は、もしかしたら「醤油10円」「お水5円」とかになってたらどうしようと慌てて残りの品書きを見る。さすがにそれはなかったですけど。
よくわからない店だ。いや、歴史と伝説の店である以上、僕がその境地に(その境地ってのがどの境地なのか知りませんが)達していないのでありましょう。きっとこの店で、顔もあげずに「焼きハムとアジフライにライス小。今日は味噌汁いいや」とか注文できた時、僕は人として男として、ひと皮むけるに違いない。